呼吸法としての「慈悲の瞑想」
6月に母が亡くなりました。その通夜においでいただいた若いお坊様が、お経の中でこの「慈悲の瞑想」を入れてくださいました。私はそのとき初めて聞いたのですが、亡くなった人を悼むのに、自分のことだけでなくて生きている人が皆幸せになるように祈る、という、このような現代的なお経もあるのかと思いました。
さて、葬儀を済ませて一段落してから改めて調べてみると、マインドフルネスなどの瞑想のときに唱えられる章句だとわかりました。私は朝起きぬけに、時々この章句を唱えてみています。お経と同じように、息の続く限り吐きながらこのことばたちを息に乗せていると、ただの呼吸運動だけなく感性も正されていくような感じがします。
(そもそもお経を上げるという行為がそのまま呼吸法になっていますね。姿勢を正して腹から大きな声を張り上げ、息いっぱいに吐き切る、吐き切ったらいっぱいに息を吸ってまた声を張り上げる…よく通るお坊さんの声は耳に心地よいものです。毎朝毎晩おつとめをなさっているお坊さん方はきっと健康なことでしょうね。普通のお経は難しい漢語の羅列だったりしますが、この慈悲の瞑想のように現代の人にもわかりやすいものがあるんですね。)
さて、現代語でわかりやすいとはいっても、私にはちょっと違和感がありました。一行目の「わたしは幸せでありますように」です。なぜ、「わたしは」なのでしょう?「わたしが幸せでありますように」という方が流れとしてはいいと思いませんか?
わたしは幸せでありますように
わたしの悩みや苦しみがなくなりますように
わたしの願いごとがかなえられますように
わたしに悟りの光が現れますように
それはその後に続く2章を唱えたあとに、もう一度このフレーズを繰り返してみるとわかります。
次の章では「わたしの親しい人」の幸せを願い、その次ではもっと範囲を広げて「生きとし生けるもの」全体の幸せを願います。そしてもう一度「わたしは幸せでありますように」と口にするとき、この「わたし」とは自分自身、自分ひとりではなく、「わたし」と呼称するすべての人の意味になっているのがわかります。
「わたしが」と言ってしまうと、あくまでも自分ひとりにこだわった、自分のための幸せを願う意味になってしまう。その点、「わたしは」とすると、「わたし」は不特定多数の人を指すようになります。
そして「わたし」の範囲はもっと意外なところを突いてきます。「わたしの嫌いな人」と「わたしを嫌っている人」です。
わたしの嫌いな人が幸せでありますように
わたしの嫌いな人悩みや苦しみがなくなりますように
:わたしを嫌っている人が幸せでありますように
わたしを嫌っている人願いごとがかなえられますように
:
こんなことを願うことができる人がどこにいるでしょうか⁉
「わたしの嫌いな人」とは自分の自我が意識して嫌っている人でしょう。これはまだわかります、嫌いな人の顔を思い浮かべられますから。けれど「わたしを嫌っている人」となるとどうでしょう?自分は意識していないけれど知らないところで自分を嫌っている人ですね。そんな人をどう想像できます?しかもその人の幸せまでも願うとは…
「わたし」とはそのような、自分の視野に入っていない人までも含めて言っているようです。誰にとっても「わたし」は「わたし」なのですね。どんな人も、普遍的な「わたし」であることには変わりないのだと考えさせられます。
宗教的にも意味はいろいろ考えられるでしょうが、それはそれとしておいて、ただ口から出る章句として吐く息に乗せながらつぶやき、併せて腹式呼吸を合わせてみると、ただ息を吐くよりは呼吸の質としてなにか違うような気がするのです。