体にちょうど合うほどの仕事
10月の声が聞こえてきました。やっと涼しい風が吹いてきました。
今年の3月まで公立高校の教員をやっていました。大学を出てからなので40年間勤めたことになります。職を辞して半年、ずいぶん生活も変わりました。
一番大きい変化は、時間の使い方でしょうか。使い方というより「使われ方」と言ったほうがいいかもしれません。「労働とは自分の時間を切り売りすることだ」とは誰が言った言葉だったか、たしかに自分の時間を自分のために使うより、誰かがどこかで作った服務規定に合わせて行動していたなあ、と思います。
今は自営で指圧の治療院をやっています。仕事のために時間を割くことは当然ですが、それはすべて自分の裁量でさばくし、すべて何らかの形で自分に返ってくるものだと感じます。
気が付くと、腕時計を使わなくなっています。高校では50分の授業と10分の休み時間に体を合わせないといけませんでした。話の内容も50分でけりをつけないといけませんし、5分前行動するにも時計は必需品でした。以前煙草を喫っていたときには、きっちり50分ごとに喫いたくなったものでした。体が煙草に毒されていることに恐れを抱きましたが、実は時間に支配されていたのですね。そっちのほうが恐いかもしれません。
今も時間を守ることは当然やっています(60分コースが少し伸びることはありますが(笑))。けれども授業の時間割のように細切れにされてはいません。考えると「時間割」という言葉は冷たい言葉ですね。本来は流れるものである時間を「割る」というのですから、自然の流れを断ち切るような響きをもっています(けれど学校に勤めているときは全然そんなこと感じなかった…)。
『銀河鉄道の夜』にこんな場面があります。
ジョバンニとカンパネルラが天の川に差しかったとき、赤ひげの鳥を捕る人(鳥捕り)と出会います。天の川に降りてくる鷺を捕まえてお菓子のような食べ物にするという仕事なのですが、その労働の情景が描写されたあと、鳥捕りがこのような台詞を言います。
「ああせいせいした。どうもからだに恰度(ちょうど)合うほど稼(かせ)いでいるくらい、いいことはありませんな。」
宮沢賢治は農学校の教員を務めていましたが職員間のトラブルもあって辞したあと、念願だった自給自足の生活に入ったということです。私と同じというつもりはありませんが、労働と時間についての感じ方はなんとなく共感できるように思うのです。